いろんな事に意味もなくムカついて

いろんなものを殴った。

それなりに痛かったし、

左手の甲側の中指の付け根、

節くれ立った部分からは血が出た。

でも、気持ちはちょっとはマシになる。

物理的な痛みが、心の痛みを消してくれる。

嫌なことは、だいたい週1ぐらいであった。

気持ち良い幸せな2週間もあれば

地獄の1週間もあった。

付け根の傷が完治することは、ほとんどなかった。

こんなリストカットみたいな真似するぐらいなら、

オナニーしてる方がマシなのかな、とも思った。

こんなリストカットみたいな真似するぐらいなら、

セックスしてる方がマシなのかな、とも思った。

どっちも楽しくなかった。

いつの間にかどっちもやらなくなった。

どっちもできなくなった。

新しい解決法を見つけたわけじゃなく。

痛みに慣れただけだった。

痛みは消えなかったが、それほど気にはならなくなった。

いつしか、痛みと共に生きていた。

いつも痛みはすぐ側にいた。

そして孤独を常に傍らに置き、奏でた。

痛みというものを意識しなくなった。

そこに痛みがあることが、自然だった。

次第に痛みを痛みとして感じる事が少なくなり、

感覚はどんどん薄らいでいった。

ある日突然、周りに痛みがないことに気付いた。

どこが痛い?

どこも痛くない。

むしろ、充実していた。

薄らいでいく痛みの中で、日々は少しづつ良い方向に向かっていたし、

幸せを感じる方法も知った。

生きるのが楽しくなってきた。

明日は何があるだろう?

なんて考えるようになった。

痛みが完全になくなったわけではなかった。

時には耐え切れないような痛みにも耐えた。

たいていの痛みの対処法は分かっていたし、

新しい遊びも覚えた。

ああ、そうか。

これでいいのだ。

今ままでどうしてこんなに不器用だったのか。

生きることに、少しだけ器用になれた。

これでいいのだ。

ああ、これでいいのだ。



ある朝目覚めると、左手の甲側の中指の付け根の節くれ立った部分を怪我していた。

どうして怪我をしたのかは思い出せない。

ただそこには擦り剥けたような傷があるだけだった。

ただ傷がある。それだけだった。

放っておくとジクジクと血と体液が半々に混じったような液体が染み出てくるので、しかたなく僕はバンドエイドを取りに洗面台へ行った。

鏡の隣りの戸棚を開け、バンドエイドを探そうと試みる。

バンドエイドはすぐに、見付かるはずだった。

かなり前、ドラッグストアの大安売りのときに馬鹿げた量の入った箱入りバンドエイドをなぜだか判らないがふた箱も買ったのだ。

だから、ふた箱の箱入りバンドエイドは戸棚のかなりの面積を占有しているはずだったのだ。

だが、戸棚を開けた瞬間に、デジャ・ビュと呼ばれる感覚は少しだけあったような気がする。

バンドエイドは、なかった。

「見付からなかった」のではなく、「なかった」のだ。

つまり、製薬会社のロゴが派手派手しく印刷された巨大なふたつの空箱だけが、そこにはあったのだ。

「え・・・」

思わず一人で呟きを洩らしたときに、さまざまな記憶の片鱗が激しい勢いでフラッシュバックした。

僕は、ここ数ヶ月の間、ほとんど毎日これと同じ行為を繰り返しているのだ。

毎日毎日、朝目覚めて中指の付け根に傷があるのを不審に思い、いつどこでどうやって怪我したのかは思い出せぬままとにかくバンドエイドだけは貼り・・・。

ということを繰り返しているのだ。

大きな箱にふた箱あったバンドエイドが、全部なくなるくらい長い間・・・。

そうして左手の甲側の中指の付け根の節くれ立った部分の傷は、まだ塞がってはいない・・・。



なんてことはない。

ただの、たとえ話。

こういうケースもあるというリアリズム。

真実は一つ。