よく風呂場に蚊が閉じこめられているのですが あれはどういった造作でしょう 下水から上がってきたのでしょうか ぶみぃぃぃぃんと響く羽音 こちらはと言えば頭をわしゃわしゃシャンプー ああ 今私は全裸で目を開けることすら叶わぬ無防備な状態 大事な所を刺されたらどうしましょう 大事な所を刺されてしまったらどうしてくれましょう! などと不安に駆られながら ああ! 鬱陶しい たとえ雌に分類されると言えど 蚊などにモテましても 私嬉しくありません

 苛つきを抑えながらも泡を流し落とした私 憤慨もそのままに 辺りを見回しましたところ ああ いるいる 神聖なる風呂場に悪魔の黒点が浮かんでおる ファック! と両手を突き出した姿勢でゆらりふらり ぱちん! 逃しました ぱちん! 逃しました ぱちん! 見失いました

 落ち着け落ち着きなさい ここは風呂場 神聖なる風呂場 かのスタジオジブリも耳をすませばと言っております 感じるのです 憎き羽音を 悪の波動を こちらは無防備な素っ裸 だからこそ感じることのできる要素もあるのです 考えるのではなく感じるのです そうここは神聖なる風呂場 水になるのです!

 と 両手を突き出した姿勢もそのままに目を瞑り 立ちこめる蒸気と同化を試みておったのですが どうもおかしい 物音一つしませんよ どうしたことでしょう 瞑想を諦めやはり視認での目標補足に切り替えてみましたところ ああ こんなところに 風呂場の壁に止まっておる 道理で羽音がしないわけです 蚊といたしましてもこの高温 やはり羽休めは必要なのでしょう 蚊が温度を感じられるのかは知りませんが


 そこで私 いいことを ええ いいことを思い付きました ちょっと動かないでくださいよ と蚊に目配せをして そっと洗面器を持ち上げます 窪んだ側を向こうに構えますと さあ お仕置きの時間です!

 壁にがぽりと押しつけられました洗面器 すかさず辺りを確認いたしますが 悪しき黒点の姿はなく 耳をすませば微かに聞こえます あの憎き羽音 悪しき波動 洗面器と壁との密室で 藻掻き苦しんでおります 慌てております 狼狽しております 混乱しております 取り乱しております ああ 快感

 これまでの十数年 蚊には散々苦しめられて来ました この恨み 晴らいでか! と発起いたしました私 洗面器を無茶苦茶に小突き 隙間から水を流し込み 飽きたらず 泡立てた石鹸 シャンプー シェービングクリーム 髭剃り アヒル その他多数 上手く隙間から滑り込ませ 洗面器本体を小刻みにスライド 震動させ 楽しみます そらそらそら 慌てふためくがいい 体力の続く限り飛び回り 蚊に産まれたことを後悔しながら 死んでゆくのです!

 気付けば体も乾き 陰部も丸出しで風呂場の壁に向かい洗面器を押しつけておる私 ああ 飽きてきました うらみ・つらみ・ねたみ・そねみ・ひがみを晴らす絶好の機会とは言え 所詮は蚊 そんなもんです あー飽きちゃった もう入れるものも無いですし どのように最期を飾りましょうか などと思案しておりますと かなり弱くもなりましたが まだ微かに聞こえます 憎き羽音 悪しき波動 洗面器に震動が伝わっているような気がして 気持ちが悪いです どうせ弱り切っておるのでしょう 洗面器を外しよろよろと出て来たところを この両手でぱちん 大往生といきましょうか

 なにか言い残すことはありませんか と 耳を付けました洗面器 ぶみぃぃぃぃんと羽音の震動が微かに頬に伝わり はは 気持ち悪 でも少し いい気味です しばらく悦に浸っていましたが いかんせん直ぐに飽きてしまいます さあ 言い残すことは無いのですね と耳を離そうとしたそのとき どうしたことでしょう ぴたりと羽音が止みまして 沈黙 安泰 静慮 なんですか さあ これでもう最期ですよ 慌てなさい! 取り乱しなさい! と小突きたる洗面器 やはり反応はなく ぽっくり逝ってしまったのかしらん と 再び近づけたる耳元 微かですが確かな声 擦れた女の声が

「 こ の 恨 み  晴 ら い で か 」


 私驚いてしまって ひっ なんて情けない声 思わず離した洗面器 中身がばらばらと風呂場の床にぶちまけられ 落下音 風呂場に響きました 数秒の放心の後 蚊はどうなったのだろうと探しましたが 一向に見付かりません まあ全て流してしまえばいい と 手に取りました洗面器 その中央に 蚊が一匹 張り付いたまま事切れており その口元 自らの腹を刺しているようにも見えましたが 直ぐに流してしまったので もう確認のしようがありません ええ もう蚊なんて 飽き飽きですわ


 それからというもの あの風呂場 四季を問わず 姿もないのに ぶみぃぃぃぃんという例の音