微笑みの効果音





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カウボーイ (ウイスキー:ミルク=5:5)
 北欧でウイスキーのミルク割りとして飲まれていたものが、アメリカで「カウボーイ」の名で広まった。
 シンプルなカクテルだが、ウイスキーの辛さがミルクによりまろやかな口当たりになるので、アフター・ディナーにちょうどよい。
 作家の壇一雄氏がこよなく愛した飲みものでもある。

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「メイに会ったら伝えて欲しいんだ。あの場所で、待ってるって。そう言えば判る。ずっと、待ってるって」

 ラバーズ・バーで顔馴染みだったその男は、私が福井の出身だと聞くや否やすぐさまそう言い放ち、何杯目かのカウボーイを一気に半分まで飲み干した。
 彼の言葉の、思いもよらぬ人物の名に、胸の奥の血管に結わえ付けられた糸が、くんっと引っ張られるのを感じた。
 
 メイの両親はひどく熱心なジブリファンで、その影響を悪い方向に受けたのか、メイは、となりのトトロはもちろんのこと、魔女の宅急便、風の谷のナウシカ、みみをすませば、あらゆるジブリ作品をまともに見たことがない、まともに見ることが出来なという希有な不幸を背負った少女だった。
 小学生の頃、私も友達の悪ふざけに乗って、
「メイちゃーん」
というセリフを校庭にいるメイに向け大声で叫んだことがある。
 この手の悪戯には尽きるところがなく、上履きを持って
「これ……メイの靴じゃない!」
 お昼休みが近づけば
「お父さんお弁当まだぁー?」
 他にも
「まっくろくろすけ出ておいでー」
「トロロだ!」
「おじゃまたくし!」
等々、ありとあらゆる悪戯が生み出された。
 初めこそ反応を示したメイだが、一年、二年と続くとさすがに何の関心も表さなくなっていき、それに伴い悪戯も忘れ去られていったのだった。


「聞いてる?」
 隣の男が、とてもアルコールとは思えない白い液体の入ったグラスを揺らしながら尋ねた。
「あぁ……ごめんなさい。酔ったかな」
 馴れ馴れしい男だったが、どうして自分がこんなにも不機嫌になっているのかわからなかった。
「それで、その上司の愛人がな……」
 彼が再び話し始めたのを聞き流しながら、ただ手持ち無沙汰にメニューを眺めていた。



 最後にあの手の悪戯を見たのは、中二の夏。
 それは私自身の手によるものだった。

 なんてことはない。帰宅部だった私は、帰宅途中、卓球部のユニフォームを着て学校の周りを走るメイを見つけた。未だにこの瞬間に浮かんだ考えはよくわからないのだが、私は何故か、私たちが中二となった今このとき「メイちゃーん」と叫んだらどうなるだろうと思ったのだ。

 果たして、反応は、なかった。
 メイは私の方をちらりと見て、そのまま何もなかったかのように走り去った。
 ただそれだけのことなのに、私はあのときのことを、あのときのメイの顔を、未だに思い出すことがある。
 そのとき、メイはもう、メイちゃんではなくなりつつあった。
 それは、メイが何よりも望んだことだったのかも知れない。
 何故だかそれを、少し悲しく思った。

 あれからも中学でメイのことを見かけることはあったが、なんとか接点と呼べる程のものはあれが最後だった。元々親しいわけでもなかった私たちは、そのまま別々の高校へ進学し、それぞれがそれぞれを生きた。
 成人式の時、私は唐突にメイがどうなっているのか気になり、それとなく辺りを探したが、それらしい影を見つけることはできなかった。後から聞いた話では、メイは大学に受かりはしたがそこを二ヶ月で辞め、四国だか九州だかの文房具メーカーに就職したらしい。


 気が付くと男は話を止めており、ぼんやりとグラスの中身に見入っていた。
 なにを考えてるの? と訊こうとして、やめた。代わりに「ちょっと、トイレ」と言うと、男は僅かに頷いた。洗面所の鏡の前に立つと、さっきまで昔のことを思い出していたからだろうか、鏡の中に立つ自分がとても奇妙に見えた。
 にこり、と効果音付きで微笑んでみた。あまりにも不自然な表情に、居たたまれなくなって、逃げるように目を逸らした。


 トイレから戻っても、男は同じ姿勢のまま止まっていた。
「さっき言った、女の人の話なんだけど……」と、男がグラスを見つめたまま言った。
「上司の愛人の?」
「違う。メイの話」
「……」
 何故だか聞きたくないような心理が働き、吸いたくもないのに煙草に手が伸びた。
 煙を吸い込むと、どういう加減か、煙草の先がじじじと音を立てた。
「あれ、やっぱり伝えなくていい」
「……そう」
「メイ、知ってるのか?」
「知らないわよ」
 なんでもないことのように言おう、と意識すればするほど、つっけんどんな物言いとなって響く種類の言葉がある。
「ちょっと、珍しい名前だなって思っただけ」

 男はグラスの中身を眺めながら、おそらくずっとそのことについて考えていたのだろう。
 少女ではなくなった、メイちゃんではなくなったメイのことを。

 冷たく響いた私の言葉が、痛みを伴い、彼の手の中のグラスを割ってしまうんじゃないかと心配になったので、摘み上げるようにグラスを奪い取ると、白濁したそれを一口だけ飲んでみた。
 初めて飲んだカウボーイは、ウイスキーをミルクで割った、ただそれだけの味しかしなくて。なんだか、泣き出したいような、笑い出したいような、そんな気持ちになった。