シ リ ー ズ ア ラ イ グ マ



 洗ってばっかりいたら、アライグマになっちまった。別にじわじわとした変化や「まず指の背の毛がぞわぞわと…」なんて筋書きも、黒の組織に変な液体を飲まされたなんてドラマ性も何もなかった。僕は部屋の片隅に溜まっていたセーターやらジーパンやらをワシワシと洗っていて、そして、僕はアライグマだったんだ。もしかしたら今まで自分のことを人間だと勘違いしていただけなのかも知れない。赤ん坊の頃から人間達の中だけで育てられたオラウータンみたいに。彼は自分がオラウータンだと知ったときどう思っただろう。「あいつの身体なんかおかしいな、どうしてだろう。こんな毛とか生えてないし。二本足で真っ直ぐ立ってるし。なんかすげぇ喋ってるし。てゆか皆そうじゃん!もしかして違うの私だけ?うそーん。」こんな感じ?どうでも良いよね。

 兎に角、僕はそのときジーパンを(半年前に古着屋で買ったやつだ。馬鹿みたいな値段の、世で言うヴィンテージなんかじゃなくて、読みにくいブランドのタグが付いてたけど引き千切っちゃったからもうわからない)洗っていて、ふと、そうまるで、テレビの左上に表示されてる時計を見て「もう17分か、あと3分だな」って思うみたいに多少の必然性を含んだ偶然(必然性を含んだ偶然?)の中、思い浮かんだんだ。ああ、アライグマじゃん、ってね。

 僕がアライグマだと知って一番初めに何をしたと思う?自分の股間を調べた。アライグマのチンチンなんて見たことなかったけれど、一応は雄みたいだった。そこにあるってことは雄だろう?ヒヨコにだってあるんだからさ。それにしてもびっくりしたよ、竿にまでびっしりと焦げ茶けた毛が生えててるんだ。静電気で埃を取る掃除用具、わかるよね、あれかと思っちゃった。ちょっと静電気発生させようとしてみたもんね。嘘だよ?股間を調べた後、色々身体に触ったり引っ張ったりしてみたんだけど、すぐに飽きちゃった。なんだかそう珍しい発見も感動もなかったんだよね。やっぱり元々アライグマだったのかな。まあアライグマはジーパンなんか買いに行きやしないとは思うけどね、一応。

 そこから後は知っての通りさ。「住宅街にアライグマ現る!」ってね。ペットとして飼われていたのが逃げただの、野生化したアライグマが突然山から下りてきただの、色々言われたよ、そりゃもう。天然かとまで言われた。日本に天然のアライグマが居るかっつーの。あーもしかしたら居るのかな?知らないけど。でも普通に考えりゃすぐに絶滅するよね。だってアライグマだよ、洗っちゃうんだよ?まあ一応はクマっぽいし、喧嘩は強いのかもね。どう思う?さっきから僕わかんないばっかりだね。実際わかんないんだもの、仕様がないってもんだよ。喧嘩なんてしたことないしさ。でも爪とかあるし、結構いい線行くと思うんだけどなー。

 えっと、どこからだ、カメラに追い回されたあたりからかな。アライグマ一匹に150人大勢だよ?大人気ないよね。まあ僕も大人なんだかどうなんだか。アライグマ年齢で言うと幾つくらいかな、なんてね。ははは。始めは逃げるのも楽しかったんだよ。わざとテレビカメラの前を横切ってみたりね。そういう時に限ってカメラマンがドジで録画ボタン押し忘れてたり、録画出来ててもピンぼけでアライグマだかうりぼーだかわかんないようなものしか撮れてなかったり。がっかりしたよ。今までテレビに出ることなんてなかったからね。チャンスだったんだ。

 で、逃げるのにも飽きて、大人しくお縄に頂戴したわけ。ていうのは嘘で、お腹が空いたんだ。僕、餌の取り方なんてわかんないしさ。始めはそこらへんの小学生が学校帰りにパンを投げたりしてくれてたんだけど、朝の会かなにかで言われたんだろうね、ある日パッタリくれなくなった。それどころか、僕の方を見るなり逃げ出したり、大人を呼んで来たり。石を投げられたこともあったな。パンと水の入った器(おそらく犬用だったけれど)をくれたときは、わざわざパンを洗うパフォーマンスまでやってあげたっていうのにさ。小学生って言っても冷たいもんだよね。朝の会がなんぼのもんだよ、まったく。

 そこまで話し終えて、僕は改めて彼女を見つめた。彼女は毎日この動物園に来ている。具体的に言えば、僕の檻の前に来て、毎日30分程座り込んで僕をジッと観察している。よっぽどのアライグマ好きなのかな。世の中わかんないよね、まったく。

 今日もおそらく30分が過ぎようとしたとき、しかし彼女はいつもと少し違った。たすき掛けにしていたアジアンテイスト漂うポーチから、棒アイスを一本取り出したんだ。色からしてソーダ味だろう。僕はそれを見たとき、まず、今季節が冬じゃなかったら一体どうしたんだろうな、と思った。まあ確実にドロドロのデロデロだよね。でも偉いもんで、棒アイスはその姿をしっかりと保っていた。そして少しだけ周りを見渡すと、それを僕の方へ差し出したんだ。一瞬戸惑ったよ。毒入りだ、と思った。一瞬だよ。でもまあ、毒入りでもいいやと思っちゃったんだ。別に「彼女になら殺されても本望だ」とか思ったわけじゃないよ。昔からそんなとこあるんだよね、僕。退廃的って言うか、生死感っていうか。そして、僕はおずおずと、檻のパイプとパイプの間から棒アイスを受け取った。

 動物園でアライグマを見たことある人なら分かると思うんだけど、アライグマの檻の中にはまさに「アライ」用のでかい水入れがあるんだよね。ステンレスのボウルを浅く広く伸ばしたみたいな感じのやつが。僕は餌を貰うといつもやる通りにその水入れの前に座り、そして棒アイスを持ったまま(今考えると、ちゃんと木の棒の部分を器用に持ってたんだ)再び彼女のほうを、彼女の目を見た。わかんないよね、いつもと同じなんだよ。まったく、女の人ってのはわかんないよ。僕は彼女の目を、じっと見つめた。それが数分なのか、数時間なのかはわからない。ここの暮らしを始めてから、時間の感覚があまりないんだよ。見えるところに時計なんてないし。彼女の目は、一定の間隔で瞬きをする以外は何も変わらない。そこで僕はまたどうでも良くなっちゃったんだよね。悪い癖だよ、ほんとに。

 そして、彼女の見つめる中、僕は少しだけ溶けかかっている棒アイスを水の中に突っ込んだ。周りの溶けかかっていた部分がもやもやと透明な液体に混じっていく。そこで僕はもう一度彼女の方を見た。「これで正解?」とでも言いたげに。

 彼女は、明らかに、そりゃもう千里先からでもアラスカ大陸からでも分かるくらい明らかにがっかりしていた。落胆、気だるさ、諦め。アライグマの僕が見ても分かるくらいにね。目は変わらないのに、全身から立ち上るがっかりオーラに、僕は取り返しのつかない事をしてしまったような気分がした。そしてそれは、やっぱり取り返しのつかない事だった。彼女はアジアンテイスト漂うポーチを再び定位置にたすき掛けにし、すたすたと歩いて行ったかと思うと隣りの檻との壁に隠れてすぐに見えなくなった。あれほどあの壁を、この檻を憎んだことはないね。まじな話。僕はまたひょいっと壁から顔を出したりするのかな、と期待したけれど、そんなことはなかった。在り得なかった。

 ようやく棒アイスを水入れから上げることを思い付いた。アイスは、それほど溶けてはいなかった。角が若干丸くなり、輪郭がぼやけた程度だった。これがソフトクリームだったら今頃えらいことになってるだろうな、と考えながら口に含むと、始めこそ薄まったような水臭い味がしたものの、後は普通のソーダ味のアイスで。毒は入っていなかった。僕は、毒が入ってれば良かったのに、と思った。その後、これを食べ終わると人間に戻ってるかも、とか変な妄想もした。悪い癖だよ。

 アイスを食べ終わり、細長くて薄っぺらい木の棒だけが残った。明日も彼女は来るのかな?と思ったけれど、たぶん来ないような気がした。そして、なんとなく木の棒を観察しながら、あの棒アイスがガリガリ君だったら良かったのになー、と考えた。もちろん、「あたり」には毒が入ってるんだよ。

 その毒を喰らって、僕は今度はなんと魚のクエになっちゃうんだ。当直の飼育委員さんがアライグマの檻でびったんびったんしてるクエを発見するところを想像して、僕は少しだけ笑った。