文字書きさんに100のお題 43




043:遠浅

 幻聴だなどとは言い切れぬ明瞭さでその声が耳朶を打ったとき、私はテトラポッドの隙間に溜まった海水をぼんやりと眺めていた。
 「なあ、やめとけよー。溺死なんて苦しいだけだって」という声が、まるで耳の穴全体を震わせるかのような感覚と共に聞こえてきた。あるいは、私の頭がそれを聞こえたと認識した。私にはその声が現実に存在するものではないということが何故だか理解できたので、慌てて辺りを見回すような真似もなく、僅かに視線を左に移動させたのみに留まったのだが、その先に見えるものもやはりテトラポッドであり、やはりそこの隙間にも嘘くさい海水が溜まっているだろうことを思うと、なんだか絶望的な心持ちになった。
 声は続き二度三度と私の耳の穴を震わせたが、内容からどうやらそれは私に対して掛けられたものではないということが判った。何故、そんなものが聞こえるのか、判然としない。そもそも何故私がこんなところでテトラポッドの隙間に溜まった嘘くさい海水を眺めているのか、それすらも判らないのだ。ただ、どうにも動いてはいけないような心地がして、陽が沈み、日で最も気温の低い時間帯になってもなお、私は海岸沿いの堤防から動き出せずにいた。動くにしろ、行くあてが一つも思い浮かばないのだ。違う、あてが無いわけではない。どこかにかつてはあてと呼んでいた場所があったような気はするのだが、ただ、漫然と思い浮かばないのだ。どちらにせよ、私はここから動けないでいる。

 どのくらい経っただろうか。五分程度のような気もするし、二時間のような気もする。それらの差が私に何の影響も与えないと云うことだけが確かだった。ふと、遠くの海、沖の方からぱしゃぱしゃという水音を聞いた。今度は現実だろうか、とそちらの方へ視線を移動させたが、何の灯りもない海は寂莫も哀憫も感傷も無く、真暗なだけで、ああなんだと思い再びテトラポッドに視点を戻すと、どうしたことかあの嘘くさい海水がすっかり消え去っている。
 空になったテトラポッドの隙間をぼんやりと眺めながら、何も考えてはない。あるいは、考えようとする事柄が余りに密に多すぎて、一見では無心とも思える心境であるのかも知れない。そして、それら差が私に与える影響もまた、皆無であった。「死ねやしないわよ。遠浅なんだから」と呪いの言葉を呟いてはみたが、そんなものに期待はなかった。陽が出始めているのを感じる。満潮になれば、あるいは強風が吹き荒れれば、またこの隙間に嘘くさい海水が溜まるのだろうか。どうも私は、まだしばらく動けそうにない。