文字書きさんに100のお題 43




043:遠浅

「なあ、やめとけよー。溺死なんて苦しいだけだって」

 もう幻聴とは云えなかった。
 その声はしっかりと耳朶に響いたし、ぼんやりとその小悪魔めいた姿すら見えるようになっていた。


「何があったのか知らねーけどよー。どうせくだらないことなんだろ?そんなもんで死ぬなんて、お前はもっとくだらない人間だってことを認めるってことになるんだぜ?」
「……黙ってよ」

 くだらないとでも、何とでも言えばいい。
 そんなもの、私の心を引き裂くこの苦しみに何の影響も与えない。


 何かのドラマで見たように、ベランダから星を眺めてみた。
 この幾千億の星々の中で地球という存在はなんてちっぽけなんだろう。
 そのちっぽけな地球に住む、もっともっとちっぽけな私。
 ちっとも救われやしなかった。
 そのまま朝日でも待とうと考えていると、ふと思いついた。
 海に行こう。

「お、やっと反応したねぇ。ほら、回れ右して。ちょちょいとこの契約書にサインさえしてくれればさ、もうなんだって思いのままになるんだぜ?」
「代わりに魂は頂きますがね、でしょ?」
「あれ、よく知ってるねぇ。それなら話は早いや。ここに親指を押しつけるだけで……」

 なんて模倣的な悪魔なんだろう。少しくらい期待を裏切ってくれたって罰は当たらないのに。悪魔に罰が当たるのかなんて知らないけれど。
「いいの」
「は?」
「いいの、もう。疲れたのよ。生きていくことに」
「そりゃまた……なるほど」
 じっと海の彼方の一点を見つめながら歩いていたが、隣で悪魔が僅かにほくそ笑むのが判った。この悪魔が私の生み出した幻想だからなのだろうか。そちらを見なくても、悪魔の挙動は手に取るようだった。

 ただひたすら、遠浅の海を沖に向かい歩いていた。
 海岸脇で大きな石がまとめて置いてあるのを見つけた。幾つかリュックに詰め込んだ。

 それなりに苦労しながら石の詰まったリュックを背負うと、どうしてこんな回りくどい方法で死のうとしているのだろう、と思った。
 わからない。わからないが、なんとなくだが、もう決めたんだ。
 初めはくるぶしほどだった水位も、進んでいくうち膝に達する程になった。
 足下からのじゃぶじゃぶという水音に、誰かの話し声が聞こえたような気がしたのは、水位が腰辺りにまで達し、いい加減歩いて進むのが億劫になり始めた時だった。


「男か?」
「ッ! 関係ないでしょあんたには! なんなのもう!」
「俺と契約すれば、そいつに復讐することだってできるんだ」
 いや、やはり違う。こいつは私の考えた幻想なんかじゃない。私がこんなこと考えるはずがないのだ。つまりこいつは本物の悪魔ということになるが、どうせ死ぬのだ。そんなこと、どうだっていい。
「もういいって言ったでしょ……もういいの。こんなの、もうたくさん。私の全てだったのよ。彼なしで生きていくだなんて、考えられない」
「あー、なに言ってんのかいまいち理解できねぇなぁ。バカか? お前バカか?」
「うっさいなー。とにかく、私は勧誘しても無駄よ。死ぬんだから」
「いや、死なないね。俺には判る」
「なんでそんなことあんたに言われなくちゃならないのよ!」
「彼なしで生きていくことが考えられないのは、別に問題じゃない。生きてくことに考えられるとか考えられないとか、そんな関係ないもの巻き込むんじゃねぇよ。迷惑なんだよ。そりゃこっちの管轄だ」
 考えるよりも先に、口が、手が動いていた。
「うるさい!」

 悪魔の方をきっと睨み、腕を振り回して、海水を浴びせかけた。
 海水は悪魔をすり抜け、むなしく遠浅の海を波打った。
 それでも腕を振るい続けた。背中で石が擦れ音を立てた。
 水音の中、悪魔の声は相変わらず響いた。

「もうさ、しょーがねぇんだよ。だからしょーがねぇって思いながらなんとか生きていくしかねぇんだ。お前は、仕事して、結婚して、子育てして、老いて、闘病して、死ぬんだよ。見ろ! 泣くな! これは、もう、しょーがねぇんだよ!」
「誰が泣いてんのよ……ちょっと、疲れただけよ」

 息を整えながら、どうしても悪魔の話の内容が頭の中を廻った。
 だめだ。どうしても彼の記憶が整理できない。
 どうすればいいのかわからない。
 つらい。死にたい。
 月明かりを反射したのか、海面に一瞬、俯いた自分の顔が写った。
 その顔が、波にさらわれ消える直前、不自然に笑ったような気がした。
 そうだ。もう、水位はお腹の辺りまできている。
 あと少しなんだ。
 私は悪魔に無視を決め込んで、ずんずんと水を掻き分け進んだ。
 別にここまできて焦ることはないのだ。
 ゆっくりやろう。ゆっくり。

「死ぬのか」
「……」
「そうか。思い通りなのになぁ。復讐もできるのになぁ」
 眉を八の字にした悪魔の挑発的な顔が浮かんだ。
 私はわざと水音を立てて進む。
「あと20分で朝日が昇る。俺は退散するぜ」
「……」
「またな」

 その声の数秒後、今まで頭に浮かんでいた悪魔の映像は掻き消えた。
 何故だか猛烈に後ろを振り返りたくなったが、なんだか別れを惜しんでいるように思われるのが悔しくて、必死に堪えた。
 頭を空っぽにして歩き続け、ようやく水位が胸元にまで達した。
 あとはもう、一気に沈んで漂うだけだ。
 疲れで頭がぼーっとしてきた。
 上手くいけば、眠りながら死ねるかもしれない。
 
 ゆっくりと、体を前に倒した。
 リュックの重みで身体が回転し、仰向けになるのがわかった。
 うっすらと目を開いてみる。
 水。水。水の映像。
 ゆらめく水。
 きらめく水。
 口から漏れる、泡。
 泡。空気。地上。水中。
 背中が海底にぶつかる感触。
 眠ってしまえることを期待しながら、
 ゆっくりと目を閉じた。











「――ぶはぁっ! かはっ、はぁ、はぁ、はぁ……」


 体が息をした。
 わけもわからず悔しくて涙が出た。
 海水混じりの鼻水も出た。
 なんだか色んな汁が出た。

 悔しくて悔しくて仕方がなかった。
 死ぬ勇気もない不甲斐ない自分が、ではなく、でもなんだか、よくわからないが悔しくて、遠浅の海で、沈んだままのリュックを思い切り蹴った。水の中で全然速度なんてついていないくせに痛みだけは一人前で、思わず屈み込み、つま先を抱えながら、水中で泣いた。

 水の中。
 泣いて、叫んだ。
 自分の声がほとんど聞こえなかったが、
 それでも叫んだ。
 私の叫び声を包んだ気泡が口から逃げて
 揺れながら、上へ上へと登っていった。
 水面に達した気泡が弾けて消えるのを見たとき
 何故だか、また、泣きたくなった。


 水中、それは、苦しかった。