文字書きさんに100のお題 41




041:デリカテッセン(お惣菜屋。仏語)

 惣菜屋のカウンター前に立ち試食を薦める娘の表情に、一瞬暗い過去を感じ取り、男は右手に持つ楊枝をほろりと取り落とした。
「あ」
 男が言うが早いか、娘は手に持つ盆をカウンターに置き、男の視界から消えたかと思いきや楊枝を床から拾い上げ、傍らの屑入れに落とすと再び男の眼前に現れた。
「どうぞ」
と言う娘の顔は先程一瞬だけ見えた暗い影など微塵も感じさせない笑顔だったが、男にはまるで強い明かりを見た後の網膜に焼き付いた残像のごとく、その影の縁取りのみが娘の顔にぼんやりと被って見え、思わず惣菜屋の奥、貼り付けられたる値札表へ目を逸らせた。
 どこで植え付けられたイメージか、男には惣菜屋と人の死体とが重なる感覚が自覚できた。全く身に覚えのない心地ではあったが、それが男には確信めいた真実としてはっきりと感じられた。
 
 ――惣菜屋の根本には、人間の死体が埋まっている。
 
「お一つ、いかがですか?」
 娘の声に意識が戻された。反射的に女の顔を見たが、どうやら残像は消え去っていたようだった。それでも何か脅迫めいた観念から、男はとっさに娘の顔を見るまいと視線を通り行く人の列に移した。
 その動作が自分で不自然に感じられ、男は内心しまったと思ったが、そんなもの意にも介さぬといった娘の双眸が視界の端で男を貫いていた。
 男にはそのまま数十分の時間を耐えたような気持ちであったが、実際には数秒にも満たぬ僅かな間であった。娘はこの男がどうにも反応をみせぬと察し、半歩身体を移動させると、再び先程のような笑顔で「いらっしゃいませ。お一ついかがですか」とよく通る声で客を引いた。
 ああ、耐えきったとやや新鮮な空気を吸い込む男は、人の列を見ているような、向かいの店を品定めしているような、中途半端な視点で、しかし真剣そのものの顔つきをした自分の姿を発見した。
 惣菜屋と人の死体とが関係あろうはずがない。娘が刹那に魅せた暗い影も、恐らくはただの光の加減であろう。その娘は、男の斜め後ろで客を引いている。
 あの声。仕草。盆の上に並べられた、惣菜の艶。男は、一刻も早くここから離れねばならぬといった心地と、その抗力のように働くまるで反対の心地とを同時に感じていた。
 と、そこへ男の心地とは全く相反する軽やかな木琴の音が響き、場内アナウンスが何やら催し物の案内を告げた。蜘蛛の糸だ、と男は思った。木琴の音に僅かに心が浮力を得た、今しかないと。
 惣菜屋からゆっくりとした足取りで離れていく男に、「繰り返します」とアナウンスが響く。その後ろでは娘が丁度、配り終え空になった惣菜を、盆の上に継ぎ足そうと店の奥へ入ろうとしているところであった。
 男はじっと足下を見つめ、自分がこちらの方向へ進んでいるのだと自覚しながら、ただひたすらに、娘がこちらをチラリとでも見ることがないよう、必死に祈った。