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12月31日(Fri)

 師匠ではないですが、大いに走った年末でした。26日はバイトの忘年会。27日は学校の忘年会。28日は新大宮でのロケハンと忘年会及びゆかりちゃん誕生日会。29日は地元の忘年会。年忘れすぎです。4日で4リットルくらい飲んでるわけですが、驚くべきことに一度も吐いていない。少しだけ寂しいのは愛嬌ですか。今年学んだことは、「ビールは飲まない」。

 さあ、お正月なんでまあそれらしい会話もあるんだろうけれど、どうも僕は季節のご挨拶的なものが苦手で、むしろお正月とか関係なく部屋でダラダラしてたい人間なんですが、ここ二年はお正月とか関係なく年初めから働いてます。明日は12時から9時までバイトです。お金を稼ぐためにバイトをしていてお年玉が貰えません。お正月はまだ許せるとして、僕は大晦日が嫌いです。大掃除も。だってね、年末って忙しいのよ。他の人は仕事収めなんかしちゃってもう暇なのかも知れないけれど、僕はむしろそれからが忙しい。だから、大掃除なんてそういう暇な人たちだけが勝手にやりゃあいいはずなのに、押し付けてくるでしょ。ものすごい非効率な制度だと思う。制度っていうのは非効率であるほど「古き良き〜」なんて言われて残されるもんなんだろうか。どうして古くなるのかについては、考えないらしい。

 さっきテレビを見たら細木和子氏がなにやら怒鳴っていて、その目線があまりにもチラチラとカメラ脇の台本を盗み見しやがるのでなんだかうらぶれた気分になって年末格闘技を見る気力もなくして部屋に引き篭もり本を読んでいたら、気付くと眠りに落ちており時計は午前四時半であったので二度ねした。みたいなね。途中から嘘ですけど。だって今まだボビーの試合見てるし。

 



12月25日(Sat)

 あ、無理。俺死ぬわ。
 銀杏BOYZが奈良ネバーランドに来ますよ!!!!!!!!!
 死ぬ死ぬ。ウンコ漏れそう。


 「ねぇ、見えないって、どんな感じ?」
 「うん・・・言葉では説明できないなあ。よくね、ただの真っ暗闇なんだって勘違いしている人がいる」
 「違うの?」
 「違うさ。まったく勝手な想像だよね。真っ暗って言うのは、たぶん、瞼を閉じた状態から想像したんだと思うんだけどさ、あれは何も見えてない状態なんかじゃなくて、瞼の裏を見ている状態なんだ。ただ光が届かないから暗くなってるだけ。目が見えないって状態とは、違う」
 「そうなんだ・・・じゃあ、何が見えるの?」
 「木。treeの、木。」
 「木?」
 「うん、暗い中に、木が見える。」
 「どうしてそんなものが見えるの?」
 「そんなの知らないよ。面倒だから、医者には言ってないし。でも、それは、確かに、見える。」
 「今も見えているの?」
 「今は・・・うん、薄っすらと。モノクロに浮かび上がってるよ。葉っぱは・・・少ないね。」
 「あー、なんだかなぁ。」
 「何?」
 「いや、だってさ、それ、私が見た最後の景色なんだもん。目を外す前のさ。」
 「ふうん。やっぱりそうだったんだ。」
 「知ってたの?」
 「いいや。でも、そんな気がしてた。」
 「ったく・・・はぁ」
 「それも効果音?」
 「これは・・・違うわよ」




12月24日(Fri)

 こ・・・こりゃあマズイ!なんか暗い!第一印象とか最悪じゃないか。誰に対するものかは知らないけれど。って、わけで、明るく、明るく。ハッピーな愛のヴァイブスでポジティブな感じでいきますよ。生きますよ。100年経ったらウンコも残らないけれど、俺の時間は100年も経たない。

 かと言ったところで僕に話題なんてモノがそうそう多くあろうはずもないのですが。えと、トイカメラ!トイカメラ欲しい!つーか買うよ。写真でもやってみよ。でも写真が趣味なんて口が裂けても言ってやらない。ファインダーも覗いてやらない。わかるかい?つまりトイカメラ欲しい。なんか100均でカメラが売ってる時代らしいですね。チープさっていうのは最後にして最大の武器だと思う。大富豪に於けるスペードの3みたいな感じで。8みたいな感じで。貧民達が強いカードを富豪へ献上する中、8って数字は、希望そのものなんですよ。あと革命な。チープさっていうのは、そういうもの。大好きだよ。ポップアートとか、コンバースのスニーカーとか、意味の判らない中国の看板とか、インド綿とかね。ああ、なんだ、俺生きたいんじゃないか。でも、そういうときに限って「え?8切り無しだろ?」とか言う声がするもんなんだけどなー。って余計な一言が暗くしてんだろーなー。

 あ、またなんか、良いこと言いたい感じよ?でも取っておこう。トイデジカメも欲しいなー。六千円くらいのやつ。でも金貯めなきゃいけないしな。パソコン買ったし。あ!パソコン買ったよ!名前考えなきゃ。

 話題なんてなくても、なんとかなっちゃう。考えてんだから。僕、たぶん来年中に結婚するよ。今、向こう側の子供をどうしようか相談しているところ。まあ答えは出てるんだけど、こういうのって答えが出ていても相談するもんらしいから。ものすごい不毛ですよね。理不尽だ。でも、こういう理不尽さ、不毛さが必要なのかも知れない。まあちょっと楽しかったりしちゃってるからこういうのもいいかなと思う。フェスティバルゲートみたいなもんですよね。大好きよ、たまらなくチープで、バブリーで。ヒトトヨウと一緒に行きたいよね。未だにヒトトヨウって漢字がわかりません。調べようともしないものね。ああ不毛だ。そして、お団子みたいに結わえられた髪型の中心を「ボタン?これボタン?ビーム出んの?ビーーーム。」なんてふざけて突っつきながら、不毛ってのは贅沢のことなんじゃないかとふと思ったりする。最近は、上手く笑えるようになってきましたよ。今証明写真を撮ったらすごい好感度の表情を切り取ることが出切る、かもしれない。かもしれない。

 ああ、書きつづけるさ。ここ二ヶ月、書かなさ過ぎだ。明らかに。とりあえず、簡単な短いものからバリバリ書いていこうと思う。僕はどう考えたってもう完全に森博嗣に侵食されきっている。でも、それが救いになるのなら別にいいと思う。僕は僕が救われるのなら僕じゃなくたっていい。なんだかスッキリした。自殺志願者の心境と自殺者のそれは、似通っているようで決定的に違うと言うけれど、後者の心境はこんな感じなんじゃないかと思う。にしても、自殺者の心境って誰が誰に訊いたんだろね。自殺志願者に、か?だとしたら大いなる誤解だ。だって、自殺志願者は、死んでないから。そういう観点で自殺志願者は苦手ですね。死んだら好きになれるかもしれないのに。あ、でも死んだらもう自殺志願者じゃなくなってるから意味ないのか。うむ、よくわからん。保留。ポイ。

 僕の住む世界は狭く限られている。まあそれでも、平均的なところだと思う。住んでる世界が三つくらいあって、それぞれの自分がいて、それぞれに知り合いがいて、携帯には80人くらいの番号やアドレスが登録されていて、そのうちの2,3人はもう顔も覚えちゃいなくて、残りの誰かからメールが届いたりする。それぞれの世界で誰かと話したりする。たまに嬉しかったり、うらぶれた気分になったりする。過去に(自称)そこそこ深く傷ついた経験があり、それについてトラウマを持ちつつも実際のとこ日常生活にはそこまで影響しなかったりもする。ごくたまに、誰かが死んだりもする。怪我もする。別れと出会いが微妙なバランスを取りながらも、やはりある。そしてこれは、たぶんあんたにも当てはまる。結構みんなそんな感じだ。ドラマ持ち込むの、もう辞めにしませんか。事実は、小説ほど奇ではない。負けず嫌いなのか知らないけれど、でもこれが本当のところなんすよね。ありのままを見てない、と思う。そしてそれは、とても失礼なことだと思う。小説は、物語と置き換えることができるだろう。それはただのテキストと置き換えることもできるかもしれない。奇、だろう。なんか当たり前で、どうしようもなくそのまんまで、小説ほど奇ではないのっぺりとしたこの世界が、僕はそれでも嫌いじゃない。「事実は小説よりも奇なんだよ」なんて、そんなうっとりとした口調で言ってほしくなかった。だってそれ、間違ってるから。幻想なんだもん。失礼だから謝って欲しい。なんて、謝って欲しいだなんてちっとも思ってないんだけれど。




12月21日(Tue)

 陽。

 というわけでまた一週間なんか空いちゃったり。もう日記は無理なのかね。一年後くらいにこれを読み返す自分にどうしても伝えたいことが見つからない。どうしても?なんだそりゃー。どうすんだー。

 16日に事故に遭いまして。中型バイク二人乗りでの乗用車との衝突事故。対向車線から車が右折してきて、どうしたって避けられようもなくて、素直にぶつかって、どーんと吹っ飛んで、車飛び越して、ズザーっとアスファルト滑って。衝突の瞬間に意識を失って、地面への衝突で復活したんで、前方宙返りを決めながら車を飛び越える視点は得られなかったのだけれど。冷めた頭で乗る救急車は白けててつまらなかった。まあ無事なんですけどね。手続きとか面倒なんですけどね。

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 陰。

 事故なんかの瞬間は全部がスローモーションになる、って、知ってた。自分はそういう機会に恵まれているんだろうと思う。感覚として、判ってた。当たり前のことだと思う。事故る直前なんか脳みそ無茶苦茶に活性化してるんだから、そりゃ感覚的にスローにもなるよ。

 「シリーズアライグマ」は13話目が一番気に入っている。自分のうちの一部、そのものだと思う。実際のところ、僕の中の一部は、死にたがってる。殺されたがっている。ずっと、そう。ただそうじゃない部分も結構あるからそうならないだけだと思う。

 事故の直前っていうのは、スローモーションになる。だから、考える時間がある。なんて恐ろしいことか。「ああ、これもう、ぶつかるよな」って思ったとき、僕はただ、溜め息だった。焦りとか恐怖とか嫌だとか避けようとかじゃなく、ただ、「やれやれ」って感情しか浮かんでこなくて、ボーっと近づくボンネットを眺めていた。衝撃、暗転。

 もっと焦ったりしたい。死にたくないと思わせて欲しい。生に執着したい。やれやれってなんなんよ。

 俺は俺に生きて欲しい。と同時にそれは俺じゃない。事故の翌日、電車の中でふと、俺は死んでいないだろうかと思った。俺は死んだことが無いので、どういう状態が死なのかは予想は出来ても体感はしたことがない。自分が生きていると証明する方法が何も無くて、絶望しそうになった。人間一人が体感できる世界なんて狭いもので、それくらいは妄想で作り出せちゃう。考えが恐ろしすぎて死ぬかと思ったので、得意のまあいいや理論で思考消滅。怖い。